昭和52年04月10日 月次祭
春の御大祭がまぁ後、五、六日に迫って参りました。例によってまぁ例のごとしと言う事になりかねないので御座いますから、それでは神様に対して相すみません。ほんとに愈々日々おかげを受けておる事を、改めておかげをおかげと実感させて貰うて、そのおかげの実感が、御大祭に現れて来る様なおかげを頂きたい。教祖様のご信心のご内容と申しますか。何時の場合であっても、これで済んだとは思いませんと言うご精神。これが私共の信心の上に大変大事な事だと思います。
今日もいくらもおかげを受けて、御礼参拝が御座いましたが。中でも太鼓の御用を頂いておられます、鳥栖の上野さんの娘さんが中島さんです。その方の導きでもう二十日ぐらい前に親子で参って来ました。まぁだ十五六でしょう。けれどもここ数年の後には、もう目が見えなくなると言うんです。もうこれは間違いなしに見えなくなる。それで本人にも、その事が分かっておりますから。
もう今のうちに見るものだけは見とこうという訳で、もう色んな本を読み漁りましたり、もう見る所にはもうそのどこにでも良いように、親もせがまれればどこにでも連れて行って、その見せておこうと言うわけです。でもう本当に丁度グラフ用紙に現して行くように、やっぱ悪くなっていくそうですね。それで今日親子でお部屋に出て参りましたがね、本当に一遍しかお参りしないとに、昨日病院にやらせて頂きましたら、全然そのまぁ二十日前ですねとその、病状が進んでないと言う。
ほうそんなはずは無い、そんなはずは無いと言うて、調べられたけれども、結局やっぱり進んでいなかった。もうお本当に、こんな嬉しい事はありませんと言うて、親子がまぁ感激のお参りで御座いましたけれども、その進んどらんだけではなくてね。これから少しずつでも、平常に帰って行く様な、おかげを受けなければいけないねと言うて、申しました事でした。
これは今朝から久留米の三橋先生の所の、ご親戚のお医者さんに当たられる方で、三橋のお医者さんに当たられる方の所のお話ですけれども。先日から三橋先生の二十年の式年祭がありまして、ご親戚みんなここへ集まられた。そして話が纏まってそのお爺さんが、叔父さんに当たる方が胃癌で入院しておる。もう医者ももういわば死刑の宣告をしておるわけです。それでまぁ今度は揃うて、もうこれが今生の別れじゃろうから、今度は揃うてひとつ、お見舞いに行こうかと言うて、昨日行かれたんだそうです。
所がそのもう偉い元気になっとりなさるそうです。そしてもう毎日ご飯がいけてから、今日はあぁたもうどんぶり一杯、うどんを食べたち言う。胃癌でもう死をその宣告されておられる病人が。しかも元気出されてその二階で、病室が二階だそうですけれども。下へ自分で降りてからみんなをその帰られる時には、送ってこられたという。もうどんなに考えても狐につままれたようなまぁおかげだ。もうそれをほんなら知っておるのは、本人も知りません親戚の方達も知りません。
結局三橋先生がお取次ぎを頂いて、お願いをしただけの事なんです。三橋先生だけでも本当に、恐れ入ってしまうと言うのです。ですから例えば今のその、二つのお話にしましてもとにかくねぇ。もう御礼参拝をしてから、何か珍しいものやら、高価なものやら親先生がお好きなものやら、その何かお供えを持って来ますよ皆が。そすとねお供えば持ってくると、もうこれで済んだかのような思いがするらしいんです。
信心はもう本当にこれで済んだとは思いませんという内容が無からなければ、愈々有難い信心には入って行けません。とにかくお礼参りが出来たら、大体その日本人の宗教観念の中に、そんなものがありますもんね。五願ほどきと言うお願いをしてから、おかげを頂いたら五願ほどきが済んだら、もうそれでもうしまえたという様な事になる。今の只今の二つもまぁだほんなら、助かるやら助からんやら。目が見えるようになるやらならんやら分からないのだ。
けどもそういう神様が印を見せて下さると言う事なんです。合楽の場合はその辺の所がはっきりする。ですからこう言うおかげも頂けれるんだ。こういう働きがあるんだという事を見せて下さるのですから、それを頂き抜くまでは、矢張り信心が進められなきゃならん。まぁそういう意味で、ほんなら一言二言の事ではない。私共の日常の中に様々に、おかげを受けていかなければならない。そのおかげを受けていかなければならない事がです。いわゆるこれで済んだと思うたら、その信心はそこで終わってしまいます。
今日は丁度四時半、ここを下ろうとしておる時に、矢部のあら何とかさんと言いよったっけね。今日三人連れで親子参ってきた。何とかさんじゃった。後藤さん所の近所だね。眼鏡をかけた。ここに何回ぐらいじゃった。それにお初穂に家庭円満、家庭中の者の健康御礼とこう書いてあるんです。始めて参ってきた時に、先生がもう金光様のご信心は、家庭に不和の無きが元。金光様のご信心は、先ず体の丈夫を願え。体が元なりと言う二つのことを教えて頂いた。
もうそれからというものは、もうみんなその健康でありますと同時にです。もう家庭が円満もう家内が、第一とても変わりました。子供達が変わりました。もう本当にこげな有難い事はありませんと言うて、御礼お届けに見えました。そのためにはね先生が言われました様に、人を例えば子供やら家内やらを責めると言う事を致しません。今まではもう大酒大食をやっておりましたけれども、健康を願うからには大酒大食も致しません。まぁここに後藤さんののお導きじゃったと思うけれども。
ご縁を頂いてまぁ半年かになるかならんぐらいじゃないでしょうか。参ってきたのはまぁ片一方の手ぐらいでしょう。それでも矢張りね、そこに教えを守っていっておるという事なんです。ですから教えを守って行く所から、そのそれこそ不思議なおかげが現れてくる。私は今日昨日から、あの青年の方達が、一夜信心実習会を致しております。私一時間ばっかり話をするようにと、今朝から言って参りましたから、ちょうど八時から九時まで一時間お話をさせて貰うたり、聞いたりしました事でしたけれども。
その中に安藤勇二君がお話をしてました。私はそれを聞いてから、本当に感心致しました。と言うのはまぁ今、親子三人で毎朝日参があります。まぁ大変何と言うですか、その日その日が、もうその日その日が、本当に立ち行かなければ出来ないおかげを頂いております。ですから実に真剣です。それにこの頃朝御理解を、例えば頂きますけれども、中々御理解が身に付きません。
身に付きませんけれども、毎日日参をさせて頂いて、まぁそれこそ片手間ながらも、信心生活、う生活と信心とが一つにならなきゃならんという風に言われるけれども、結局僕の場合は片手間である。いわゆる仕事をしよる時には、神様のほうが忘れとる。神様さへ向こうておる時には、仕事のほうを忘れるわけじゃないけれども、まぁとにかく、半分半分の様な信心だけれども、最近分からせて頂く事は、様々な事柄の中に、もう神様の微妙な働き、今まではそれをうっかり、何でもない事と思うておった。
何でもない事の中に神様の微妙な働きを感じます。それが有難いという発表をしてました。信心させて頂いたら、自分の頂いておるおかげ。目に見えるおかげ。これはまぁ大体分かります。願いが成就致しますから。けれども願い以上の事は願っていない事の中に、様々な働きの中に本当に神様のもう、何とも言えん微妙なその働きを感じさせて貰う所から、何時も感動の日々が過ごさせて頂いておると言うのです。やっぱりあの真剣に願うことがあるという事は、素晴らしい事だと思います。
いうならば難儀は素晴らしい、私共の信心成長の元になるものだと言う事を感じます。今日午後の奉仕の時に、ある修行生がここにお届けに参りました。何かごちょごちょと言ってる、私耳が遠いから良く聞こえんのです。けども涙をぼろぼろ流しながら、何かやっぱりよっぽど辛い事苦しい事があるらしいんです。ですから何のち言うてから、その聞かれないような状態ですから、神様にだけお願いさせて貰いました。お取次させて貰った。もう涙を流すほどし何か苦しい。
辛い事がある模様ですから何かそれに適切な御理解を頂きたいと思うてね。訳は分からんのです。そしたら神様からねここではまぁ言うならば、一切が神愛だというふうに頂きます。それはだから皆さんも、よく合楽理念の勉強などなさっておられる方は、なおさら分かっておられる。起きてくる全ての事が、天地自然の働きというものは、人間を丸うせずにはおかん、丸うせずにはおかんという働きだけしかないんだと言う事は、皆が知っておる。言うならばもう一切が神愛だと。
どんなに腹の立つ事があっても、どんな苦しい事があっても、これは神様が愈々おかげを下さろうとする働きであり、愈々丸うなれよ大きゅうなれよ、豊かになれよと言う働きだと頂き留めるという事は、それが神愛だから頂きとめる事が出来るんだと、理屈では分かっておるけれども。また本当にこれが神愛だと思いますと言うても、実感としてそれを神愛と受け止めると言う事は、中々難しい事である。
今日私はその方の事で頂いたのですけれどもね。一切がね一切が修行だと受け止めずして、一切が神愛としては頂けんと言う事を頂きました。起きてくる様々なきついとか、色んな苦しいとかと言う様な問題をです。一切が修行だと受けて初めて、一切が神愛だと本当に分かるんだというのです。この修行は嫌だ。こんな苦しい所から早く逃れたいと言う様な心で、本当の神愛と言う事が分かるはずはない。
もうここの所は皆さんでもね、そげな話はもう沢山聞いたごたる気がしよりなさるでしょうけれども、今日は始めてなんだ今その言う事は。私ももう随分頂いたような感じがするけれども。よくよく頂いてみると、今日その事、始めて頂いたんです。私共がほんとに有難いと言う事は、本当に神様の一切が神愛の表れであると頂けた時が、私共の幸せだと。ほんならその理屈を聞けば今は分かる、天地の親神様の働きというものは、一切を丸うせずにはおかん。
丸うせずにはおかんという働きしかあっていないんだから、自分が丸うなる事の為に、愈々精進させて貰えば有難いのですけれども、そういう働きの中にこの事は有難いけれども、この事は有難くないという、言うならば自然の働きとの対決なんです。自然に起きてくる、いや様々な問題との対決においてです。それを修行と受け抜いた時にです。またそういう信心が出来た時にです。なるほど一切が神愛だと分からせて頂くと言う事なんです。どうでも皆さん起きてくる、もう自分で求めてする修行。
言うならば表行的な事はいわば、もう合楽では全廃そういう修行はもういけないと。ただ日参をするとかね。大祓信行をするとかという程度の修行ですけれども、神様が求めなさる所の修行。この修行だけには私共は一つ、本気で取り組まなければいけないと言う事。神様が求めなさる、これはあなたにだけ求めなさるという修行というのがある、私の前に起きてくる、嫌な思いをする事やら腹の立つ問題やら、それを嫌な思いをしたり腹を立てておったんではです。
如何に神愛を説かれてもいかに合楽理念を説かれても、それは本当ないわば事にはなってこない訳です。いやな問題嫌な事柄、もう本当に嫌々と言うごたる問題をです。それを対決する。そしてそれに打ち勝っていく修行が必要なんです。それを神様の愈々丸うなれよ、愈々精進せろよと。愈々本気で神様に向かえよと言うて下さる働きであると頂けた時にです。いわば自然の様々な、起きてくる問題を、いわばそれに対決して勝ち得た時に、私共がその修行をなしえた時という事になるのです。
そういう修行が重ねられない限り、どんなにほんなら合楽理念を分かろう。分かる事は分かるけれども、今朝からの御理解じゃないですけれども、身に徳を受けて見しのぎが出来ると言う様なおかげにはなってこないのです。此の方は参って尋ねる所がなかった。みんなは遠方の所を参って来るが、信心をして見しのぎが出来るようになれという御理解だった。皆さんが本当に遠方の所を、こうやって参ってくるが、ここでは皆さんがね、尋ねようと思えば尋ねられる。分かろうと思えば分からせて下さる。
だからそれを皆さんが、頂いていかなければいけません。私共はさっき申します、その目の見えなくなるという人胃癌の人の事。それは神様の働きその印を見せて下さるだけの事。皆さんはその印を十分に知っておる。ですからそれを印だけではなくて、本当なものを頂く事の為の信心がなされなければならない。その信心をなされて行く時にです。今まで気が付かなかった事の中にも、本当に神様の微妙な働きを感じ取る事が出来る。神様の働きを、じかに感ずる事が出来る。
そこに有難い心が生まれてくる。そこへ起きてくる様々な問題。その有難い心をもって対決しなければ、何時も自然の働きに抗し得ない負けてしまう。起きてくる様々な嫌な問題、痛い痒い事から、ね。腹の立つような事柄の上に至るまで、神様があなたに求め給う修行であると悟らせて貰うて、それをどっこいと受け止めさせて頂く、有難い心が日頃に育っていっておらねければなりません。
そういう稽古をさせて頂く限りです。私共の心の中にもうそれこそそれに取り組んで見て思うのですけれども、その取り組み方の浅いのに、自分ながらびっくりするくらいです。お粗末御無礼の多い事に驚くのです。どんな事が出来たと致しましても。もうこれで済んだと言う様な事があろう筈がありません。所が初心の人達やらは一言願っておかげ頂いたら、はぁおかげを頂いたと。そのやれ嬉やというその印を、お供えならお供えに現して御礼に出てきます。
そしてそれでもう済んだかのように思うておる。それでは金光様のご信心は出来ません。金光様の信心はもうどこまでも、これで済んだとは思いません。言うならば肯定も無からなければ否定もないという信心です。そういう信心でなからんと、もう私共の場合はすぐ油断が出ます。すぐ慢心が出ます。油断が出たり慢心が出たりすると、神様がすぐお気付けを下さいます。そのお気付けをお気付けと気付く間は、まだ良いですけれども。気付かん様になったらお仕舞です。
今日お祭りのために、共励殿に出てまいりましたら、修行生の方達が今度学院に行く修行生の方達が、ずらっと黒衣を着てから並んどる。今日黒衣が全部出来揃うてきた。それで黒衣を着て私に見てもらおうというのだと言うのでしょう。ざっとこう見せて頂いただけでも、感動してからちょっとものが出らないぐらいに、私は感動した。不思議ですね。ここに修行に入ってくる。
もうそこで信心が二人見るごと変ります。それはもう信心だけに専念するから変わるんです。片手間じゃないです。生活がかかってないです。その事だけに専念する、だからこの頃その話。これに黒衣を着けたら、また一段と変わるんです。不思議です。秋山君のお母さんが、あの息子の黒衣姿を見てから、大変感動したと言うて、さっきお届けがありました。いわゆるそれはどう言う事かと言うと、着ておる者自身が、もうそれこそさらなもう本当に感動一杯で着ておるから、感動が相手に伝わるのです。
ですからそういう気持ちをね。何時までも持ち続けたいのですけれども、それが仕舞えん頃には、もうそれが当たり前の事になってしまう。その当たり前の事になってしまわん修行その稽古がです、今日皆さんに聞いて頂いた、これで済んだとは思わんという精神の信心をしておりませんとです。おかげを受けた時には感動であり、それが過ぎたらまた元に戻ると言った様な事ではいけません。愈々御大祭。その御大祭にもうこれで済んだとは思いませんという、まぁここ数日間の色んな御用もございましょう。
又はお祭りを頂くためには、色んな自分の信心の心構え、また心栄えというものを現さなければなりません。為には大祭が来たからほんなら、例によって例の如しと言うので、家庭の中で済まされる様な大祭では、感動も何もない御大祭になってくる。そこに何とか、工夫がなされなければならない。そこをですこれで済んだとは思わんという精神が内容に込められておかなければならんという風に思います。
どうぞ。